職業安定行政史

第2章 明治時代

有料及び無料の職業紹介事業

営利職業紹介事業の運営

徳川幕府が亡び、明治維新が訪れると、世はまさに文明開化の時代である。新しい時代には、新しい生き方を必要とする。営利の職業紹介事業にも、新しい動きが表れ始める。
 これまで紹介業者の扱う主な職種は、奉公人と呼ばれる武家や商家の使用人であった。足軽、中間などの武家奉公人や、下男、下女、女中、乳母、子守などの家事使用人、それに丁稚(でつち)、小僧などの商業使用人がその例である。近代的な産業が興り、さまざまな事業が始まると、新しい職業が生まれる。それにつれて、職工、技術者、事務員などの新しい職種に取り組もうとする紹介業者の活動が活発になった。
 名称も、「人宿」ではもう古い。職務紹介社、周旋社、雇人紹介所、奉公人取扱便利舎など、当時の言葉でいえば、とてもハイカラな名前がつけられる。設立の趣意書や宣伝にも、新時代に即した取扱いに改め、近代的な職業をあっ旋する旨が強調される。なかには料金をとって、求人情報を閲覧させたり、教えたりする者も出てきた。
 こうして紹介業者も、時流にそって文明開化にふさわしい道を歩もうと努めた。しかし新しい職種の求人は乏しく、結果として従前とあまり変わらぬ内容のあっ旋が続いた。

営利職業紹介事業の規制

江戸時代の職業紹介業の運営には問題も多く、番組人宿という組合による自主統制がかなり厳しく行われたものである。明治に入っても、取締りは必要であった。
 そこで東京府は、明治5年(1872年)に、「雇人請宿規制」を制定した。この規則では、紹介業を雇人請宿と呼び、営業するには保証人を立てて免許を受ける必要があった。免許がおりると鑑札が交付され、看板をかかげることになる。求人、求職双方から取れる手数料は給金の5%とされた。紹介業者は雇われる者の身元を引き受け、事故があれば損害賠償の責を負う。無籍者や逃亡人のあっ旋をしてはならないなどの禁止規定もあった。規則違反者は鑑札を没収され、相当の罪に処せられる。無免許で営業している場合も同様であった。
 この規則は翌6年に改正され、行政の直接監督が間接監督に改められた。規制の内容は従前とあまり変わらないが、江戸の頃のように紹介業者に組合を作らせ、官庁監督の下に組合の自治的な取締りを行わせることになった。さらにその後、何度も改正が行われた。明治24年には「雇人口入営業取締規則」と改称され、大正6年(1917年)には「紹介営業取締規則」と変わった。こうした経過のなかで、めぼしい改正点は、免許基準を厳しくする(紹介業者の資産保有額の引き上げ、求職者を宿泊させることの制限など)、手数料の徴収率や計算方法などを改める(徴収率を各10%にするなど)、さまざまな届け出を義務づける(不審な求職者の届け出など)などである。
 明治5年制定の東京府の雇人請宿規則は、営利職業紹介業の取締法規として初めてのものである。この規則をモデルとして、他の府県も次第に取締規則を制定するようになった。

無料職業紹介事業の創始

手数料をとらずに、無料で職業紹介を行おうとする動きが出始めたのは、明治も半ばをかなり過ぎてからである。明治34年、東京本所の若宮町にあった私立第一無料宿泊所で、無料の職業あっ旋が始められた。ここに泊まっている貧困者を対象としたものである。同じ頃、東京神田美土代町の東京基督教青年会でも、人事相談部で無料の職業紹介が行われていたといわれる。これらの施設は、それぞれに本来の事業をもっており、その事業の本質は、気の毒な人達に援助の手を差し伸べようとするものであった。貧しい失業者への仕事の世話は、その本来の事業を行う過程で、自然発生的に始められたに違いない。
 どんな時代にも、戦争の勝ち負けに関係なく、戦後には多数の失業者が発生する。戦争が終わると軍需関係の生産は縮小を余儀なくされ、人員整理が行われるからである。戦場からの帰還軍人も、働き口がなければ失業者の仲間入りをせざるを得ない。
 明治時代には、明治27~28年に日清戦争(現在の中国との戦争)、明治37~38年に日露戦争(現在のソ連との戦争)と、2度も大きな戦争があった。そしてその戦後には、失業者が多発した。今日の食べ物にもこと欠く失業者から、金をとってあっ旋するのは気の毒である。紹介は無料にしてはどうか。そんな慈恵的な発想から、無料の職業紹介事業が始められたといわれる。

明治39年に東京芝の愛宕町にある救世軍本部に、職業紹介所が創設された。無料の職業紹介を行うため、専門的な組織としての「職業紹介所」が、日本に初めて誕生したわけである。この設立には、悲しい背景があった。この年の東北地方には大変な飢饉(ききん)が訪れた。困窮した家庭では食うものもなくなり、人買いに子女を売って急場をしのぐということも起こった。彼女達の落ち着く先は、いわゆる赤線地域、肉体を売って金を稼ぐところである。こんな悲惨なことは、人道上放置できない。その対策に、東京、横浜あたりの女中などの求人を集め、それにあっ旋しようとしたのが設立の由来だといわれる。
 明治40年に大阪婦人ホーム、同42年に東京基督教青年会、同43年に大阪基督教青年会と、相次いで無料の職業紹介所が開設された。こうして、宗教団体や慈善団体などの手で、無料の職業紹介事業が進められた。この頃の無料紹介事業の特徴としては、宗教団体などの奉仕活動が多かったこと、無料宿泊などの慈善事業と併せて行われたことなどがあげられる。紹介の対象は、日雇労働者や家事使用人、商業使用人が多かった。
 我が国の無料職業紹介事業は、このように民間の団体が先導役となった。それらの団体の救済的な奉仕活動は、当時の世情を背景に、それなりに意義深いことであった。しかし、奉仕活動には、従事する職員の数や施設設備、経費等の面からおのずから限界がある。そのため、幅広い活動を大きく期待出来ないうらみがあった。

公立職業紹介所の設置

職業紹介を、民間の慈善団体などにまかせるだけでは、大きな成果は期待出来ない。そこで、公立の無料職業紹介所の設置の奨励が行われた。明治42年、内務省は6大都市(東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)が無料の職業紹介所を設置するならば、国庫補助を行う旨を通達した。これを受けて、東京市が明治44年に、芝と浅草に職業紹介所を開設した。翌45年には、小石川にも設置した。これが、日本における公立職業紹介所の始まりである。この動きは、漸次、他の都市にも広がっていった。
 その頃、無料の職業紹介所は、公立私立をひっくるめて公益職業紹介所といった。この呼び名は、営利の紹介業者に対照してのものである。日本の職業紹介事業は生まれてから約250年、その間もっぱら営利を目的として続けられてきた。それだけに、無料の公益職業紹介所の誕生はまさに画期的といえる。それは職業紹介事業の近代化の曙(あけぼの)ともいえる出来事であった。

政府が公立の職業紹介所の設置を勧奨する以前にも、一部の地方公共団体で、職業紹介に取り組んでいるところがあった。明治40年の地方自治要鑑(内務省編)は、「職業紹介所の制もまた生業扶助の一端である」と述べ、「西欧諸国の多くの都市では、公営の紹介場を設け、安い手数料か、あるいは無料で、雇主や雇われる者のため仲介の労をとり、これによって失業者を救済している。我が国の1、2の自治団体でも、労働紹介の業を経営するものがある」として、次のような例をあげている(表現は現代ふうに改めた)。
山梨県中巨摩郡豊村(現在櫛形町) ここは山間のへき地で水田もなく、武田信玄の頃には柿を植えて副業としていたぐらいである。村長は、勤労の風を興し、失業者に職を得させようと努めた。まず労働にたえる者を調べておき、労働力の需要者に照会してどれぐらい労働者を必要とするかをつかむ。その求人へ就労希望者を向けて、生計の道を得させた。
山形県西田川郡鶴岡町(現在鶴岡市) 救済委員という制度を設け、町内で労働力の需要がある雇主を調査しておき、職のない町民を求人者に紹介した。その雇主には、支払う賃金から1日1銭を納めさせた。救済委員はこれを郵便貯金とし、紹介を受けて、働く人達の病気や不幸があった場合の救済資金とした。

日本の無料職業紹介事業は、無料宿泊所で、そこに宿泊する浮浪者などを就労させるための紹介からスタートしたともいえる。そして、貧しい失業者に生計を得させようとする慈善救済の事業として、各地に広まった。明治の末に生まれた公立職業紹介所は、欧米先進国の例を学びながら近代的な運営を目指した。しかし、設備や機構は未だしで、十分な活動を望むのは無理であった。芝と浅草の東京市立職業紹介所は宿泊業を兼ね、浅草には授産場が併設されていた。無料の職業紹介事業から社会事業的な色彩を払拭するには、まだまだ時間が必要である。またこの時代の職業紹介は、依然として営利の紹介事業が主流であった。

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