職業安定行政史

第4章 昭和時代(1)(戦前、戦中期)

職業紹介所の業務の拡充

失業救済事業の拡大と就職難

大正から昭和に移っても、不況の厳しさは一向に変わらない。農村では不作続き、都会では失業者があふれていた。昭和4年、ニューヨークのウォール街での株式暴落が、世界的な経済大恐慌に広がった。日本もその影響を受け、景気はさらに悪化し、失業問題は一段と深刻化した。
 大正の末期に、6大都市で冬期に限って始められた失業救済事業は、昭和4年からは失業者のとくに多い地方で、失業者の多い時期に施行されるようになった。そして、その就労者には労働手帳を交付することとされた。その頃は「大学は出たけれど」働く職場は乏しく、知識階級の人達の就職率も極めて低かった。そのため、同じく昭和4年には、失業救済の対象を小額給料生活者にも広げた。彼らには、土木工事のような肉体労働は適当ではない。そこで、官公庁の委託事務、公共団体の調査事務など、事務関係の失業救済事業を創めたのである。

当時の就職難がどんなに激しかったか、その一例を紹介しよう。
 昭和6年7月28日、飯田橋の東京府職業紹介所に、1万人を越す求職者の大群が押し寄せるという事態が突発した。その年の秋に東京で開店、または拡張予定の3つのデパート(松屋、白木屋、美松)から、同所に1,500人余りの求人が申し込まれた。当時の労働市場の状況からすれば特筆大書もの。各新聞が報道を競った。これを見て、すさまじい反響が起こったのである。
 当日は早朝から、水道橋、飯田橋間は紹介を受けようとする求職者の長蛇の列が続いた。道路にあふれた群集のため、一時は市電も自動車も動けず、多数の警官が緊急に集められて、交通整理に当たった。踏みつけられて脚腰を痛めた者約200人、卒倒者3人、迷児5人も出て、同所の裏庭の急設救護所で応急手当を受けた。当時赤字に悩んでいた市電では、機敏にも車台を増発し、臨時案内係を置いたほどである。その日の夕方には市電の係員が、車台調達の都合から「明日は求職者がどれぐらい来るでしょうか」と尋ねにきたという。
 職業紹介所側は30人の職員ではどうにもならない。他から70人の応援を得たが、いずれも汗だくで目を回した。求職者を到着順により受け付けることは至難であった。そこで全職員が随所で履歴書を受け取り受付に代えることになった。当日履歴書を提出した者だけでも男2,500人、女8,000人を数えた。求職者の大群を前にいろいろな商売が現れた。一番繁盛したのは履歴書の代書屋である。近所の商店の前に、机代わりの戸板を並べて開業。1枚5銭ないし10銭の料金で、1日20円近く稼いだ者もあったという。翌日には履歴書の様式を謄写印刷して売り出す者や、これを利用して代書する者も出てきた。職業紹介所側では、これらの代書屋から、求職者が不当な料金をとられぬよう、警察へ取締りを要請したほどである。行列を作って待つ者のために、氷屋、そば屋、パン屋などの屋台が活躍したことはいうまでもない。
 応募の受付は7月31日で締切った。4日間で出頭の応募者は男3,939人、女1万1,431人、計1万5,370人。そのほか履歴書を送ってきた者が約3,500人にも上った。これらに対し、8月1日から毎日約1,000人ずつを面接し十数日がかりの選考が続けられた。この状況は各新聞社が特報した。遠くニューヨークタイムズ紙などにも報道された。日本全体が就職難にあえいでいた頃の、暑い夏の日の出来事であった。

職業紹介業務の拡充

昭和初期の深刻な失業情勢のなかで、職業紹介所の紹介業務は、次第に拡充されていった。
 職業紹介所は、就職のあっ旋はしても、就職の場を作り出すことは出来ない。就職難時代における紹介活動のポイントは、求人を集めて就職させる機会を何とか早く見つけ出し、失業者の就職に役立たせることである。窓口で待ち受けるだけの受身のサービスでは、そうした期待にこたえられない。変転する情勢に即応出来るような活動が求められる。これまでの有料職業紹介事業の亜流から脱皮して、紹介業務の質を向上させること。社会が要請する新しい分野にも、取扱いの幅を広げること。そういった努力が続けられて、初めて職業紹介業務の拡充が図られていくことになるわけである。

大正の末期に、失業救済事業が発足したことは、既に述べた。この事業に就労する失業者は、労働紹介所に登録し、輪番紹介を受ける。こうしたこともあって、失業者のみならず一般の日雇労働者の利用も増加した。労働紹介所の紹介が、日雇労働市場のシェアの大半を占めるようになったのはこの頃からである。
 新規小学校卒業者の職業紹介も、この時期に目覚ましく前進した。大正14年から始まったこの業務については、内務省と文部省から、数次にわたって通達や指示が出された。職業紹介所は職業紹介の面から、小学校は職業教育の面から、両者の連けいは強化される。職業指導、適性検査、職業相談、求人開拓などが計画的に進められた。就職後の職場訪問、就職者慰安会、永年勤続者の表彰なども、活発に行われるようになる。こうして新規小学校卒業者の紹介関係業務は、職業紹介所の重要な年中行事となった。取扱数の増加は、次のとおりである。

 求人数(千人)求職者数(千人)就職者数(千人)
 大正15年51166
 昭和5年694717
 昭和10年1789443
 昭和12年28912561

多額の経費をかけての募集人制度による募集競争は、依然として続いていた。特に生糸を作る製糸工場では、女工の雇用期間は一般に1年で、短期間に募集を行わねばならないため、悪質の募集行為が目立っていた。その弊害は、警察の取締りだけでは解決されない。昭和3年、製糸女工の集団的な移動紹介――今でいう広域紹介が、職業紹介所の手で始められた。需要地である群馬県の前橋職業紹介所と、供給地の新潟県下の各職業紹介所とが提携しての紹介であった。当時、新潟県から働きに出る女工は約3万5,000人、その大半は製糸女工であったといわれる。新潟県下の募集人は、募集の最盛期には1万人を数えることもあったようである。それだけに、職業紹介所による製糸女工の移動紹介の実現は、特筆すべきことであった。この成功は、従来未開拓のままであった他の分野へ、職業紹介所が進出するきっかけを作った。紡績工場はもちろん、募集人制度に多くを依存してきた水産業、鉱業、建設業などで、職業紹介所の紹介により労働者を集める道が拓かれていった。

北海道の鰊(にしん)、千島の鱈(たら)、カムチャッカの鮭、鱒(ます)などは、出稼漁夫が中心の漁業であった。大正12年には3万6,960人の出稼者が出漁したといわれる。漁夫の主な出身地は、青森、北海道、秋田県などであった。しかし、彼らの募集には問題が多く、供給地では取締規則を作って弊害の防止に努めていた。多額な募集費、無理な人集め、雇用契約の不明確、過重な労働、低賃金などが主な問題であった。こうした状況は、小林多喜二の有名な「蟹工船」にも描かれているところである。
 大正13年に内務省から、北海道と東北、北陸の主な県に通達が出された。北海道への出稼漁夫は、市町村長、または出稼供給組合長が中心となって、その団体紹介を行うようにとの趣旨である。職業紹介所がまだ普及していない地域で、募集の弊害を除くための過渡的な手段を指示したものであった。大正14年に北海道、青森、秋田の道県に出稼供給組合が生まれ、同15年の漁期から職業紹介機関と連けいのもとに、紹介を始めた。昭和2年には主要な道県での供給組合は218を数え、年間の漁夫供給数は3万1,337人に上った。しかし、主な目的であった募集費軽減の実効は、あまり上がらなかった。それでも、出稼漁夫紹介の貴重な先駆になったものである。
 岡山を中心とした藺(い)刈り労働者の広域紹介が、昭和4年から始まった。酒を作る杜氏(とじ)、凍豆腐、寒天製造などの出稼者の紹介も、この頃から活発になった。昭和4年には、新潟県の千谷沢村(現在小国町)に町村組合立の小国郷職業紹介所が、兵庫県の温泉町と村岡町に季節職業紹介所が開設された。いずれも、出稼者のあっ旋のために設立されたものであった。
 建設労働者の広域紹介が試みられたのも、この頃からである。大正14年、埼玉県下の県営砂利採取事業に、東京の失業者約500人が送られた。しかし現場に収容施設がなかったため、結果は失敗に終った。
 昭和5年、山梨県下の国道改修工事(請負施行)が失業救済事業として認められ、労働者の半数以上は東京の失業者を紹介就労させることになった。東京からは32回にわたって、1,722人を送り込んだ。しかし、翌年11月までの工事期間に、半年以上勤続した者は全体の1割にもすぎない。宿舎、賃金、作業条件などに労使の紛議や怠業が続発し、帰京者も続出したからである。労多くして実りが少ないといわれたが、建設労働者の広域紹介の経験としては貴重なものであった。
 昭和7年、北海道における土工部屋の改善策が、内務省から指示されている。監獄部屋ともタコ部屋ともいわれた北海道の土工部屋について、世論の批判が高まったからである。東京あたりの悪質な周旋人によって、北海道の土木工事に送られてきた労働者が、厳しい監視、管理のもとで酷使されていたのを改めるためである。その頃北海道の土工部屋に送られる人数は、毎年2万人ないし3万人といわれていた。昭和7年、半官半民の北海道土工殖民協会が発足し、問題の多い募集や労務管理の改善に着手した。職業紹介所はこの協会と提携し、北海道向け土木労働者の紹介に取り組んだものである。監獄部屋の解放改善には、長い日時を必要としたが、その取組みは、価値のあるものであった。

昭和初期の北海道や東北地方では、農作の不況が毎年のように続いた。昭和6年の稲作は、平年作の3分の1といわれるほどであった。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」で有名な岩手の詩人宮沢賢治がその詩の中で、
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノトキハオロオロアルキ
と哀しくうたったのは、その頃である。数年来の凶作は、昭和9年の大冷害で極点に達したといわれている。困窮して翌年の種もみまで食べてしまった農民は、蕨の根を掘り、木の芽をつみ、松の甘皮をむいて飢えをしのぐ惨状であった。農家では生計の糧のため婦女子の身売りが続出し、中には幼い女児までも売られた。昭和9年に東北6県から働きに出た婦女子は5万8,173人。その中には、芸妓2,196人、娼妓4,521人、酌婦5,952人、女給3,271人が含まれている。
 職業紹介機関は、身売りを防ぐために、都会の需要地から女工、女中、子守りなどの求人を集めた。そして現地の市町村と協力し、相談やあっ旋に努めたものである。これを身売り防止の職業紹介といった。
 昭和6年には、入営者職業保障法が制定された。兵役に服した者が除隊する場合、その復職を保障しようとするのがねらいである。常時50人以上を使っている雇用主に適用された。法律の主な内容は、①入営を理由として不利益な取扱いをしてはならない、②入営のため解雇した場合は、退営後3月以内に再雇用することを要する、③再雇用の場合の労務や給与は、入営直前のものと同等であることを要する、などである。
 兵役は納税とともに、旧憲法による国民の二大義務であった。現役兵は一般に2年間入営するのであるが、その場合勤務先を退職するのが普通であった。昭和の初め頃の除隊者は、毎年約7万人。しかし不況のどん底で失業の深刻な時代である。除隊しても原職に戻れない者、就職出来ない者が多く、その数は年々増える傾向にあった。国民の義務を果たすための入営が、それ故に失業を招くとなると、大きな社会問題である。そこでこの立法となったわけである。法律の普及にあわせて職業紹介所は、除隊者の職業紹介に積極的に取り組んだ。就職者数は、昭和5年の353人から、昭和7年に1,064人、同9年には4,719人に増加した。

旧制中学卒業以上の者を、当時は知識階級とか俸給生活者と呼んでいた。知識階級失業者の増加に対処して、特別の失業救済事業が始められたことは、前にも書いたとおりである。昭和2年には、その就職あっ旋を強化するため、「俸給生活者職業紹介事務取扱要綱」が定められた。主な都市の職業紹介所には、知識階級を専門に取り扱う部が設けられた。東京に市立の知識階級職業紹介所が誕生したのは、昭和6年である。こうした努力が実って、職業紹介による知識階級の就職者数は、次第に増えていった。昭和2年には953人にすぎなかったのが、昭和7年には1万1,882人、昭和9年には2万689人に上った。

取扱いの専門化

職業紹介の業務は、これまでなかなか手の及ばなかった分野にまで、次第に広げられていった。その頃の職業紹介所は、離職者の就職あっ旋を別にすれば、一般に商業や家事の使用人が取扱いの主な対象と見られていたものである。それだけに、昭和初期のこうした業務の多様化はまさに画期的といえた。その取組みは、すべてが満点といえる出来ではなかったにしても、目を見張らせるものがあった。
 業務の種類が多くなると、その処理を効率的にするため、窓口の専門化が考えられる。取扱いの対象者別に、特別の窓口を設けるという仕組みである。それがさらに進むと、専門の職業紹介所の設置ということになる。窓口の専門化は、それにふさわしい知識や経験の豊富な担当者を配置し、適切な相談や紹介が出来るという利点がある。日雇労働者や婦人専門の職業紹介所は、かなり以前から発足していた。その他の部門の専門化は、ちょうどこの頃から盛んになった。

昭和9年末の職業紹介所の総数は587所である。その取扱いの専門化の状況を見ると、次のようになっている。

取扱対象者専門紹介所の数専門部の数
 日雇労働者6829
(右のうち臨時紹介所等)39
 婦人911
 少年29
 俸給生活者17
 朝鮮人4
 除隊兵3
 熟練工1
 季節出稼者25

ちなみに、専門職業紹介所が初めて設置された状況は、次のとおりである。

  • ○日雇労働者 大正8年、大阪市今宮労働紹介所開設。失業救済事業の就労者を紹介するため臨時に開設された日雇労働紹介専門の臨時紹介所としては、昭和5年、東京府の羽田町臨時取扱所。
  • ○婦人 私立では明治40年、財団法人大阪婦人ホーム職業紹介所開設。公立では大正13年、東京市婦人職業紹介所開設。
  • ○少年 大正14年、東京市少年職業紹介所開設。
  • ○俸給生活者 昭和6年、東京市知識階級職業紹介所開設。
  • ○朝鮮人 大正13年、大阪市の内鮮協和会泉尾職業紹介所開設。
  • ○季節出稼者 出稼者を紹介するために季節的に開設された職業紹介所としては、昭和4年、兵庫県の温泉町、村岡町各職業紹介所。
業務充実の努力

取扱いの分野が広がり、取扱い専門化が促進されて、職業紹介所の業務は大きく様変わりをし始める。しかし取扱いの幅が広がっただけでは、業務の真の充実は期待出来ない。その運営を円滑にし、かつその質を高めるための努力――内部充実の努力が必要となるわけである。そこで、職員の研修や打合わせ会の開催、手引書の作成、求人開拓運動の展開、PR活動の積極化、職員の表彰などが相次いで企画され、実施されるようになった。

大正15年に、中央職業紹介事務局の主催で、職業紹介事業講習会が開かれた。8日間にわたる講習であった。その目的は、職業紹介所の職員が次第に増え、教育を徹底する必要があったためである。職業紹介業務の行政官庁が、全国規模で初めて行った研修であった。研修はこのほか、職員養成講習会、実務講習会、実務研究会などの名称で相次いで各地で開催されるようになった。昭和6年、初めて全国の職業紹介所長事務打合わせ会が開催された。そのときの公益無料の職業紹介所は421所、その全所長が初めて一堂に会しての打合わせ会であった。この会議にあわせて、内務大臣から、全国の優良職員21人の表彰が行われた。所長の打合わせ会議は、その後各地で、各ブロックで開催されるようになった。職員の職業紹介事務打合わせ会、関係機関を集めての協議会、事業主を対象とした懇談会も、随時開かれた。昭和10年には、大阪で求人求職連絡交換会が開催されている。こうした会合が、職業紹介の情報交換や関係者の意思の統一、職員の資質の向上や紹介技術の前進に大きく寄与したことはいうまでもない。

失業情勢の厳しいときには、何といっても求人の確保が課題である。職業紹介機関はそれぞれに工夫をこらして、求人の開拓を競った。特別求人開拓班の編成や、求人者懇談会の開催は、各所共通の施策であった。中にはある1日、平常業務をストップして、全職員を求人開拓活動に動員するところも現れたほどである。しかし1所だけの努力では、それほど効果は上がらない。そこで全国の職業紹介機関が、一斉に歩調をそろえての求人開拓が展開されることになった。
 昭和5年5月、6日間にわたる「求人開拓週間」が実施された。職業安定行政としての、初めての全国キャンペーン行事である。この運動は、その翌年には、10月に3日間「一斉求人開拓日」として行われた。昭和7年には、10月10日を「職業紹介総動員日」と銘打った。このときは求人開拓のみならず、職業紹介事業の宣伝や利用勧奨も行った。主催は内務省(職業紹介機関)であるが、後援にはこの頃から、陸軍省、海軍省、文部省などが名をつらねている。除隊者や学校卒業者の就職確保が、その頃の急務の1つになってきたからである。昭和8年も同9年も、「職業紹介日」を11月に設けて、PRや利用の促進に努めている。
 職業紹介事業のPRは、当時はポスターやビラによるのが主体であり、ラジオ放送も利用された。それには、いろいろな標語や、公益職業紹介所の利点が強調された。よく使われた標語に、“事業は人から、人は職業紹介所から”がある。利用上の利点としては、取扱いが一切無料であること、適材適所の紹介が行われること、就職旅行には運賃が半額になること、などがあげられていた。

昭和6年には、東京地方職業紹介事務局に、職業紹介実務研究会が発足した。その研究会で作成された“職業紹介実務必携”が、昭和8年に刊行された。この必携は、全国の職業紹介所職員の手引書として普及し、大いに活用された。
 大正14年から開始されたラジオ放送は、時代の最先端をいく報道手段として画期的なものであった。この近代兵器を、何とか職業紹介に役立たせようとする計画が練られた。東京中央放送局(JOAK)との折衝に成功した東京府職業紹介所は、昭和5年からラジオによる職業紹介放送を開始した。毎日定刻に、求人口の紹介を主体として放送したものである。この放送は大変好評を博した。求職者の選職に直接役立っただけではなく、職業紹介所のPRにも効果をあげたことはいうまでもない。各地の放送局も東京にならって、職業紹介関係の情報を流すようになった。
 これまでに紹介したような企画や事業が、特に昭和6年やその前後に集中したのは、この年が職業紹介法施行10年目の記念すべき年に当たっていたからである。こうしたことは、その時限りで終ったのではなく、その後も情勢の変化に即しながら、続けて実施された。そして、職業紹介事業の充実、発展に、大きく寄与したものである。

職業紹介関係者の調査活動も、また職業紹介事業の進展に役立ったものの1つであった。各地の産業や労働の実態調査や業務の分析調査などに、格別な情熱が注がれた。調査の結果は印刷刊行され、名著の誉れの高いものが数多く世に出た。業務の拡充や、新しい仕事への着手には、これらが好個の資料になるわけである。職業紹介関係者は、優秀な業務マンであると同時に優秀な調査マンであらねばならないとは、その頃よくいわれた言葉であった。

新しい分野への取組み、内部充実の努力は、着々と実っていった。職業紹介所の評価は次第に高まり、業績も向上する。
 創設当初の公益無料の職業紹介所の目標は、まず営利の職業紹介事業に追いつき追い越すことであった。しかし、労働市場のシェアの大半を占めていた営利職業紹介事業を追い抜くには、かなりの歳月と努力の積み重ねが必要であった。昭和7年になって、ようやく多年の宿願が達成された。公益職業紹介所による就職者数(日雇の就労者を除く)が、営利職業紹介事業のそれを上回ったのである。その状況は次のとおりであった。

大正15年昭和7年
○公益(無料)職業紹介
  職業紹介所数187所462所
  就職者数(日雇就労者を除く)222,563人540,725人
○営利職業紹介
  紹介業者数9,712所2,913所
 (右のうち取扱いのあった業者数)4,003所1,916所
  就職者数(日雇就労者を除く)624,884人535,801人
職業紹介所の姿と労働市場の変化

その頃の職業紹介所の状況を、ちょっと紹介してみよう。昭和7年の公益職業紹介所は、462所を数えた。業務の取扱い数は増加して、次第に忙しくなっていった。しかしそれも、地域や時期などによってかなりの較差があった。
 都市部では、求職者相手の相談、紹介や求人開拓などで、相当の忙しさである。小学校の卒業期には、恒例の職業指導や就職あっ旋でさらに忙しくなる。日雇労働者の紹介部門では、失業救済事業への毎日の紹介や賃金の繰り替え払いで、多忙の日々である。職員は、1所に数人ないし十数人配置されているのが、一般的な都市部の姿であった。
 農村部は、少し趣きが違っていた。季節出稼者を扱っているところでは、出稼ぎのシーズンは大繁忙である。その時期を過ぎると、取扱い数は大幅に減少する。町村立の一般の職業紹介所では、年間の就職者数が10人、20人のところもあった。施設としては大半が町村役場に同居し、専任の職員は平均して1人程度。仕事がないときは、役場の事務を手伝っていたようである。都市部から女中の求人連絡でも受けると、職員が応募者をつれて求人者のもとを訪ねる。そのあと求人地の職業紹介所を回って打ち合わせて帰る。こうした情景がよく見られた。

昭和に入ると、国の内外で血なまぐさい事件が相次いで起こった。経済不況、農村疲弊、失業者多発などによる暗い世相を、さらに暗くするような出来事の連続であった。
 国内では、政府、政界、財界、軍部などの要人の暗殺事件が、しばしば起こった。昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件などは、その最たるものである。
 中国では、“事変”という名の日本軍による軍事行動が起こった。昭和6年9月、満州事変勃発、不拡大を唱えながら戦場は拡がっていった。昭和7年1月には、上海に飛び火して上海事変。昭和12年7月には、中国全土に戦火は拡がり、支那事変が始まる。欧州では、昭和14年9月、ドイツがポーランドに侵入して第2次世界大戦が起こった。昭和16年12月、日本は中国のほかに米、英、オランダを相手とする大東亜戦争に突入した。
 戦争と労働力の確保とは、好むと好まざるとにかかわらず、深いつながりをもつ。戦争にはまず、闘うための兵力を必要とする。兵力の主体は若い人達である。常備の兵士では足らず、軍隊には各方面から若者が集められる。また軍需用物資の生産の増強にも、労働力を増やさねばならない。軍隊に送ったあとの欠員の補充も必要である。戦争が長引き、戦場が拡大すればするほど、労働力の需要は増大していくわけである。そして、その労働力の調達は、職業安定行政の所管である。
 こうした軍需産業における労働力の需給の影響を受けて、労働市場は急速に変貌し始めた。昭和9年には、初めて求人数が求職者数を上回った(求人数179万4,000人、求職者数157万人)。求人超過となったのである。大正時代から長い間失業者の対策に明け暮れてきた職業紹介所にも、大きな転機が訪れた。求人の充足――所要労働力の確保が、国策上の大きな課題となったわけである。

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