職業安定行政史

第6章 昭和時代(3)(独立以後)

労働経済の変遷

連合国軍の占領から独立をとり戻した日本経済は、一進一退を繰り返しながら着実に進展していく。昭和31年には、「もはや戦後ではない」という言葉が流行した。同年に出された経済白書の中で、戦前の基準にまで回復した経済について使われた表現がヒットしたものである。昭和35年には国民所得倍増計画が樹立された。わが国の経済は、本格的な高度成長期に入った。しかし昭和48年のオイルショック以来、一転して安定成長の時代を迎えることになった。
 ここで、労働行政の背景となる労働経済の推移をあらまし紹介しておこう。

まず独立後から昭和30年代の状況である。
 昭和25年に勃発した朝鮮動乱による特需景気で、生産は増加し経済は拡大の方向に向かった。しかし、労働力の需要はそれほど好転せず、その頃の公共職業安定所の求職倍率は約2倍であった。求職超過の傾向は、依然として続いた。実質賃金の水準は、戦後の混乱期には大幅に低下していたが、昭和27年にはほぼ戦前の水準にまで復活した。
 昭和30年代には、鉄鋼、機械などを中心として投資や生産が伸びていく。その伸長のテンポは年を追って強まり、雇用量は増え、それにあわせて求人も増えた。昭和30年当初頃から、新規学校卒業者の労働市場は求人超過に変わった。労働力不足の傾向は、技能労働者層にも及んだ。やがて一般労働者についての求人増加もあり、求人求職のバランスはほぼ均衡するようになった。労働力需要の増大を契機として、失業者も不完全就業者も減っていった。労働異動も次第に活発になる。常用雇用者の離職率は、昭和31年の14.8%が、同36年には22.0%に上った。
 昭和30年に入ってからは、物価の安定もあって、名目賃金の上昇はかなり鈍化した。しかし、労働市場の変化は、賃金にも大きく影響する。新規学校卒業者の初任給は、昭和34年頃から上昇が高まり、対前年比が35年16%、36年23%、37年27%と、うなぎ登りに上った。こうした上昇傾向は、労働力確保難の中小企業に著しく、昭和36年以降は大企業との初給賃金の較差はほとんど見られなくなった。初任給の上昇は若年層の賃金にも波及し、年齢別の賃金較差は次第に縮まった。この頃の賃金の上昇は、所定内給与の増加が主であった。これは、労働力需給のひっ迫、消費者物価の上昇、生産性の向上、企業経営の好転などが背景となってのものである。
 労働者の生活は、終戦直後の資産くいつぶしの「たけの子生活」からようやく脱して、明るさが見られるようになった。昭和30年代の後半には、所得の増加にあわせて消費が増大する傾向が続いた。高度経済成長期に入ると、家計収支はさらに規模がふくれる。消費の内容は“消費革新”といわれるほどの充実ぶりであった。昭和30年当初頃の消費者物価の上昇は、年率1.0%程度に止まっていた。しかし昭和35年以降は再び高まり、年率6%前後の上昇を見るようになった。

昭和40年代に入ると、大型景気が続き、鉱工業生産は毎年10%を超える伸びであった。昭和43年度のGNPは、アメリカに次ぐ高水準となった。こうした情勢の中で、わが国の労働経済は大きな変化を見せた。
 その変化の第1は、労働力が不足基調に変わってきたことである。昭和30代後半からの若年労働者や技能労働者の不足は、一段と厳しくなった。その影響を受けて、一般労働市場でも求人が増え、人手不足の時代が訪れた。労働力の需要がひっ迫すると、労働力の給源の開拓と労働力の有効活用が重要な課題となる。男子から女子へ、さらには家庭の主婦へ、給源の幅は拡がる。若年層の不足は中高年層で補うことになる。昭和40年から45年の間の女子雇用者の伸びは25.5%で、男子の伸び(15.6%)を大きく上回った。変化の第2は、労働者の異動の活発化である。これまで企業間の異動は、終身雇用制などの関係から、あまり活発とはいえなかった。企業の規模の知何を問わず労働力の不足が深刻になったため、よりよい条件を求めての規模間の異動が目立つようになった。
 賃金は昭和40年代は、年率10%を超える上昇が続く。労働力確保のための初任給の高騰、労働生産性の向上、好況による企業の増収益などがその原因であった。春闘時の労働組合の交渉力もまた、その上昇に役立ったようである。
 物価の上昇も根強く、40年代前半は年率5.4%の増加であった。物価もまた重要な問題である。労働者の所得は増え、消費内容も改善されていった。
 昭和40年代の後半には、経済にかげりが見え始めた。昭和46年ドルショック、同48年オイルショックと続いた。インフレの高進、国際収支の悪化などから、同49年にはマイナス成長を記録し、厳しい不況が訪れた。公害や生活環境整備の遅れなど、高度成長のマイナス面が問題化してきた。経済成長至上主義から福祉充実への転換が図られ、経済の基調は安定成長に変わった。
 労働力の需給面では、求人の大幅減少で昭和50年の求人倍率は0.6倍と落ちこんだ。雇用情勢の悪化から、各種の雇用調整が行われる。失業者が増えて昭和50年の完全失業者は100万人、失業率は1.9%となった。
 昭和40年代の後半には、技術革新が進み生産性は上がった。賃金も高騰を続け、昭和49年の春闘では32.9%の大幅な賃上げとなった。
 消費者物価は昭和47年から騰勢を強め、オイルショックにより加速した。しかし政府の総需要抑制策で、沈静化に向かった。賃金と物価の関連から、物価の安定が重要な課題となった。昭和40年代後半からは福祉の充実が図られ、週休2日制の普及、定年の延長、財産形成の充実などが促進された。

昭和50年代に入ると、輸出の急増などで景気は回復への途をたどる。労働力の需給関係や雇用の面でも、好転の兆しが表れ始める。所定外給与で賃金の大幅増加が見られ、消費者物価の沈静で、実質賃金はかなり改善された。
 昭和50年代は、オイルショックの危機を乗り越えて、これからの新しい時代への対応に向かうことになる。

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